written by RIBI & illustrated by RIN







□□第3話□□






マヤは瞬きも忘れて田中の顔を見上げたまま、硬直してしまっていた。

『貴女が好きです』

このフレーズが、頭の中に何度もこだまする。
と、突然心臓が、ありえないほどにどきどきどきどきと早鐘を打ちだして、血流を伝って耳にその音が響きだす。
顔が熱い。きっと真っ赤になってしまっているはずだ。

(好き、って。私を…、『好きです』って… ど、どうしよう…)

田中から視線を逸らすことも出来ず、マヤはただ硬直し続けていた。
するといつまで経っても何も言わないマヤに、田中はふっと眉根を解き、表情を緩める。

「そんなに…固まらないで下さい」

困ったような笑顔。

「あ…、あ、すいま…せん……」

「僕こそ、いきなりこんな事を言って、驚かせてしまいましたね」

と、そう言いながらも、田中は不意に笑顔を引っ込め真面目な顔になると、

「…ですが、決して嘘や冗談を言っているわけではありません。僕は…本気です」

疑う余地も無いほど真剣なその声に、マヤは咄嗟になんと返せばいいのか分からない。絶句している彼女に、田中はすぐに柔らかい笑みを浮かべる。

「返事は、急ぎません。ゆっくり考えてください」

そんな風に言ってアッサリと話しを締め括ると、田中は『冷えてきましたね。そろそろ帰りましょうか』、と、タクシーを停める為車道へと身をのりだした。
そんな彼の背中を見ながら、マヤは心がぐるぐるとした迷いの渦に巻き込まれるのを感じていた。


田中からの告白は、素直に言えば、とても…嬉しい。
彼と過ごす時間は楽しく、心地いい。長い冬に強張っていた心が解れるかの様な、そんな春めいた暖かさを、田中と会って過ごしている間、いつも感じる。
先日の結婚式、あの時の、草木の満ち足りた笑顔が浮かぶ。そう、最愛の男性と結ばれて、幸せいっぱいな…あの表情。
田中といれば、私も、いつかあんな風に笑えるのかも、しれない。

じゃあ……、田中と、付き合う?

新しい恋を…、始める…の?

……あの人を、忘れて───…?




気付けばマヤは、胸元でぎゅうっと、強く拳を握り締めていた。
感覚がなくなるほどに握られたそれを広げて見てみれば、クッキリと爪の痕がついてしまっている。
掌に、赤い半月が4つ。
それはまるで、心に浮かんだ想いに、条件反射的に身体が、拒否反応を示しているかのように、マヤには見えた。
マヤは自分の掌をじっと眺めながら、きゅっと唇を引き結ぶ。
そしてそこから振り切るように顔を上げると、肩にかけていたショルダーバッグの中から、一枚の封筒を取り出した。
それは田中に会う毎に、渡そう、渡そうとしながらも、結局いつも渡せずにいたモノ。

「田中さん…っ」

振り返った彼の鼻先に、マヤは手にしたそれを、さっと差し出す。

「これ…受け取っていただけませんか?」

「……これは?」

「私が主演してる、今公演中の『紅天女』のチケットです。田中さんに、観て頂きたいんです。あの…、お仕事がお忙しいとは思いますけど…っ」

マヤはどこか必死な様子で言葉を重ねていた。
他人から見れば、たかだが芝居のチケットを渡すだけ。それだけのこと。だがしかし、そこには、マヤにとって並々ならぬ覚悟がいる理由があったのだ。
顔を伏せ、受け取って下さい!とばかりにチケットを差し出すマヤに、不意に田中が、

「僕が行って…、いいんですか?」

聞き取れないほど小さな声で呟かれたそれに、微妙なニュアンスを感じ、マヤは訝しげに顔をあげる。

「……え?」

だがその時には、田中はなんら変わりない穏やかな表情で、軽く首を振っていた。

「いえ、何でもありません。ありがとうございます。では遠慮なく」

彼女の手から離れた封筒が、彼の背広の内ポケットに納まるのを見て、マヤは少しほっと吐息をはく。
そしてそんな彼を伺うように見上げながら、マヤは今度こそいよいよ言いにくそうに切り出した。

「それでその… 私、田中さんに、ひとつお願いしたい事があるんですけど……」
















大きな歓声と拍手が鳴り響く。
舞台の上では、マヤ達役者が勢ぞろいで並び、観客席に向かって深々と頭を下げていた。
高揚が会場いっぱいを包み込む中、ゆっくりと緞帳は下りた。


いまだ盛大な拍手を背中に感じながら、マヤはまだ指先から髪の一筋まで役が入り込み、抜け切らない感覚にどこかふわふわとした思いで、舞台を後にする。

「北島、お前ずいぶんと演技に気合が入ってたなぁ」

「マヤちゃん、お疲れ様! なんか凄いテンション高かったね」

「あ、北島さん、お疲れ様でした。今日もすっごい素敵でした…」

途中、そんな風に幾人もに声をかけられたが、マヤは曖昧な返事をしてそれらを振り切り、自らの楽屋へと急ぎ戻った。
身に纏っていた豪華な打ち掛けをまずは一先にハンガーにかけ、とりあえず白襦袢姿で鏡の前に腰掛ける。
鬘を外し、厚く塗られていた舞台メイクをクレンジングで落としきり、化粧水、乳液とを顔に馴染ませる頃になって、マヤの心はやっと少し落ち着きを取り戻す。
今日は、阿古夜が自分から抜けだしていくのに、ずいぶん時間がかかった。それほど、今日はいつも以上に役柄にのめり込んでしまっていたのだろう。
その後、桜小路など幾人かが入れ替わりで楽屋を覗き、食事などを誘われたりしたが、全て断り、マネージャーの林にも、今日は先に帰ってくれるようお願いした。

ひと通りの身支度を整え、マヤは楽屋でひとり、その時を待っていた。
するとしばらくして、

──コンコン

響いたノックの音に、マヤはびくりと肩を跳ね上げ、ピンと背筋を伸ばす。心の準備はとっくにしていたのに、それでも押し寄せてくる緊張は拭い去れない。
すでに心臓は、破裂しそうなほどばくばくいっている。
マヤは鏡の前の椅子から立ち上がると、ぎゅっと唇を噛む。そうしてしばし躊躇った後、恐々とした声で言った。

「……どうぞ」

その承諾に、カチャリという音を立てて扉が開かれる。
マヤはそっと瞼を一度伏せ、覚悟を決めたようにきゅっと唇を引き結んでから、ゆっくりと瞼を開けた。
目を上げれば、そこに佇む、あの人の姿。
そしてその腕に抱えられた、鮮やかな、紫のバラの花束。

目にした途端、もう…無理だった。

一気に涙が溢れ出し、頬を伝って、ぽとぽとと床へ零れ落ちる。

「…う、…う、ひっ…く」

止まらない涙を、マヤは拭いもせずに、ただひたすら目の前の彼を凝視していた。
今マヤの前に広がる光景は、もう…何年も前から、彼女が心の中で描き続けた願望の図、そのものだった。
望んで、望んで、望みすぎて、夢にも見れないくらいに。

(速水さん…、速水さん… ……紫の、バラの人…っ)

いきなり泣き出し、嗚咽しながらいつまでも棒立ちで泣き続けるマヤに、最初驚いた顔で立ち竦んでいた彼が、ゆっくりとした歩調で歩み寄ってきた。
腰を屈め、彼女の顔をのぞき込んで来る。眉根を寄せ、端正なその顔に、いかにも心配げな表情を浮かばせて。
その優しい眼差しに、また涙が溢れた。

「ひっく…、う、うぅぅ…… うぇぇ…ン…」

拳を両目にあて、もはや子供の様に泣きじゃくるマヤに、彼はどうしたらいいのかしばらく戸惑った様子を見せた後、その腕を伸ばして彼女の身体をそっと抱き寄せた。
包み込まれた広い腕の中で、よしよしと頭を撫でられる。
その暖かさに、優しく抱かれる感触に、マヤはいよいよ感情が高ぶって堪らなくなり、ぎゅうっと彼に縋りついた。


彼の胸からは、先ほどまで彼の腕に抱えられていた紫のバラの香りがした。
懐かしい匂い。
甘い香りが、マヤの脳を痺れさせていく。
これは甘美な夢。
ずっとずっと、この目で見たかった夢。
マヤはこのままこの夢に溺れ、どこまでも惑わされたまま、深く沈み落ちていきたかった。
だが……、

「どう…したんです、北島さん  ……大丈夫ですか?」

抱き締められた腕の中で、彼のそんな気遣うような声を。軽やかなイントネーションの、その声を耳にした途端、マヤの夢は…壊れる。

(違う。違うっ! 
あの人は、私を『北島さん』なんて呼んだりしない。
そんな…、他人行儀な呼び方を、したりしない。
それにあの人は、こんな…柔らかい声じゃない。
全然、違う。
そう、彼は違う。
あの人じゃない。
そうだ…、違うんだ───…)

描かれた彼女の夢の世界は、ピキピキと激しく亀裂が入り、割れ、一瞬にして霧散し、消えた。
最初から覚悟はしていたのに、あまりのその儚さに、マヤはクラリと気が遠くなりそうだった。
そう、覚悟、していたのに…
最初から…田中をこの舞台に招き、願ってはいけない願いを彼に託した時から、マヤはこうなる事を覚悟していた。
それでも、望んでしまったのだ。
かりそめでも、一瞬でもいいから、と。

『舞台の後、真澄から、紫のバラを直接渡されている自分』

そんな叶わぬ願いを、いつまでも引き摺り、こうして田中まで巻き込んで、愚かしいまでに縋りすいている自分は、なんて馬鹿なんだろう。
そして…田中から向けられた好意に甘え、こんな事をさせる自分は、なんて失礼でひどい女なんだろう。

分かっていた。
彼は真澄じゃない。
どんなに姿形が似ていたって、彼は真澄ではない。
そう…、彼は、マヤの『紫のバラの人』ではありえないのだ。


田中の腕の中で、マヤは唇を強く噛み締め、いつまでも泣き続けていた。














「…本当に、ごめんなさい」

マヤは、田中に対して頭を下げる。


控え室のパイプ椅子に、マヤと田中は向かい合って腰掛けていた。
彼らのいる部屋の外は、すでにシンと静まり返って、ひとつの物音もしなければ、誰の気配もしない。
あの後、長い時間をかけてようやく泣き止んだマヤは、田中にぽつりぽつりと事情を語り出した。
紅天女の事。
紫のバラの人の事。
そして何よりも、真澄の事を。
それはとても長い話だったけれど、田中は一言も口を挟まず、じっとマヤの話を聞いてくれた。

そうやって語る事で徐々に高ぶっていた感情が落ち着き、全て話し終わった頃には、マヤはなんて事をしてしまったのだろうと、田中に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「何も知らない田中さんに、そんな身代わりをさせるだなんて…、私ってば…なんて事を…… ホントに、ホントにごめんなさい…っ」

恥ずかしくて彼の顔が見れないマヤは、頭を下げたまま、ひたすらに謝罪する。そんな彼女に対し、それまでずっと黙って聞いていた田中は、

「…そんなに、謝ったりしないで下さい……」

ポツリと呟いた。

「最初から…、判っていました。初めて会った時からずっと、貴女の目は、いつも僕を見ながら、僕を透かして、その向こうにいる人物を見ていた。僕の顔の上に、その人の面影を、必死に見出そうとしていた」

静かな声で語る田中に俯いた状態で耳を傾けながら、マヤはきゅっと眉根を寄せる。

「…すいま……」

「ねぇ、北島さん。例えば…」

またしても謝ろうとするマヤの言葉を、田中が遮った。

「例えば僕が、それでも構わない、と言ったらどうですか? 北島さんの大切な…その人の身代わりでも、別にいいと。僕をその人と思ってくれて構わないから、それでも僕と付き合って欲しい、と。僕がそんな風に言ったら…、貴女はどうしますか?」

思ってもいなかった田中の言葉に、マヤは驚き、思わず伏せていた顔をあげ、目をしばたかせて田中を見上げる。

「え…っ な…、なんで、そんな……?」

「分かりませんか?」

戸惑うマヤに、田中は間髪居れずに言った。

「貴女が好きだからです。言ったでしょう?本気だ、と…」

マヤはドキッとし、思わず自らの心臓の辺りをぎゅっと掴む。
あぁ、まただ…と、マヤは心の片隅で思う。
つい先日、田中に好きだと言われた時も、こんな風に激しく心が動いた。
高鳴る心臓に、これは…自分に訪れた『新しい恋』なのではないかと、そう思った。
彼を好きになれば、彼とならば、幸せになれるかもしれないと、思った。
だけど……

「───…だめ、です…」

言った途端、止まっていた涙が、また目頭に浮かび上がってきた。
マヤはひどく情けない顔で、田中を見詰める。

「…ごめんなさい。ダメ…なんです。私、田中さんとお付き合いする事は…、出来ません」

そう、出来ないのだ。彼と付き合う事なんて。
だって…分かって、しまった。
いいや、きっと最初から分かっていた。
ただ、分からぬフリをしていたかっただけだ。

紫の薔薇を手に、田中が目の前に立った時、分かった。

田中といてあんなにも楽しかったのも、
田中といてあんなにも嬉しかったのも、
そして田中に告白されてあんなにも胸が高鳴ったのも、
それもこれも、全ては田中が…この顔をしているからなのだ。

恋しくて、恋しくて、心が引き千切れるくらい恋しくてならない、真澄と同じ顔をしているからなのだ…っ。

楽しかったのは、真澄としたかった会話だから。
嬉しかったのは、真澄と過ごしたかった時間だから。
そして胸が高鳴ったのも、そんな甘い愛の告白を、真澄から言われているみたいだと、心が勝手に思ってしまったからなのだ。


田中は優しい。
誠実だし、明るいし、話だって面白い。
それに、ちゃんと私を…『女』として見てくれている。その上で、こんな私を、好きだと、そう言ってくれている。
…なのに私は、そんな彼を、どうあっても、真澄の身代わりとして見ずにおれない。
決して叶わない願望を、彼の顔の上になぞる様にして、かりそめの夢をみてしまう。
そして…結局は、田中は真澄ではないのだというその事実を思い知り、ひどく落胆したりして……
そう、落胆したのだ。自分で田中にお願いしておきながら。
彼が真澄じゃないことに。そんな当たり前の事実に。

……つくづく私は、なんて馬鹿なんだろう────

「田中さんのコト、好きになれたら…よかった」

本当に、ただ純粋に彼を好きになれたら、どんなによかったか。
でも、だめだ。
私が好きなのは、田中じゃない。どんなに姿形が似てたって、違う。
私が求めているのは…あの人だ。
紫の薔薇の向こうにいる、あの人だけなんだ……

「でもわたし…、やっぱり私は、あの人の事が忘れられない… あの人以外の人とは、お付き合いとか、考えられない。私が好きなのは…、あの人だけなんです」

ぼろぼろっと流れる涙に、マヤは深く頭を下げる。

「田中さん、ごめんなさい… ごめんなさい… 本当に、ごめんな、さい…」













「…もう、いいですから……」

俯き奥歯を噛みしめて嗚咽を堪えるマヤに、田中はそっとハンカチを差し出した。

「僕こそ、謝らなければ… 振られているくせに、それでもしつこく言い寄ったりして、貴女を困らせてしまいましたね」

清潔そうなハンカチに、思い切り涙を染み込ませながら、マヤはぶんぶんと大きく首をふる。
そのまま二人して沈黙し、その中で、マヤの高ぶっていた感情が静かに凪いでいった頃、

「ご自分で…、会いに行かないのですか?」

「……え?」

ずずっと鼻をすすりあげながら、マヤは真っ赤な目で田中を見上げる。
何を言われたか、瞬間分からなかったからだ。

「その方に、北島さんから、会いに行きはしないのですか?」

繰り返されたそれは、やはりマヤには理解しがたい言葉だった。
意表をつかれ、マヤは呆気に取られる。
自分から、真澄に会いに行く…?

確かに真澄は、大都芸能からは居なくなってしまったが、大都の別会社に移っていっただけで、東京からは離れていない…はずだ。
そうなれば、彼は相変わらず都内の、あの豪華なお屋敷に、今も変わらず住んでいるのだろう。
ならば…分かる。あそこには、以前マヤもしばらくの間、滞在させてもらった事があるのだから。
そこまで考えて、マヤはハッとし、

「い、イエ… そんな会いになんて行ったって…」

そうだ。私が会いにいたって…、真澄にとっては迷惑でしかない。
マヤの知らぬ間に結婚し、あのお屋敷には、すでに紫織が、彼の妻として住んでいるかもしれない。
例えまだ結婚していなくても、屋敷を出て、今はどこか別の場所で暮らしているのかもしれない。そう、紫織と二人きりで。
自分は、今現在の真澄の事を、何も知らない。
この2年以上もの間、彼の事は雑誌とかでしか見ていないのだから。

真澄に会えば、自分はきっと、言わずに居れない。
紫のバラの人の正体について。
そして、我慢できず、その時一緒に、問わずにはいられないだろう。
あの最後の薔薇と共に送り返された、紅天女の台本の意味を。

何もかも忘れて、新しい環境で次々と成功を収め、どんどん高みへと上り詰めて行っている真澄にとって、マヤに関するそんな諸々は、もうとっくの昔に過ぎ去った過去でしかない。
今更、私が会いにいったところで、きっと…煙たがられるだけだろう。

そんな事を考え、マヤが顔を顰めて何とも言えずいると、田中が思いがけないことを言い出した。

「北島さん、僕はね、今日、こうして北島さんから事情を聞くまで、僕に似ているというその人、もしかしたらすでに亡くなってらっしゃるのかな、と思っていたんです」

「え… えぇぇ!?」

「あんまり貴女が思い詰めた瞳で僕を見られるから。ご自分で気付いていますか? 貴女のその目は、まるで…もう二度と会えない人に対する様な… そう、手の届かない遥か彼方の故人を想うような、そんな遠望の眼差しをしているという事を」

ビックリ、した。
マヤは、思わず指先で、自分の瞼や目頭に触れる。
…本当に、私はそんな目を、しているのだろうか。そんな目で、田中を見ていたのだろうか。
驚きが隠せないマヤに、田中は続けて言った。

「だがその人は…、生きてこの世にいらっしゃるんでしょう?」

言われて、ふと、真澄の姿がマヤの脳裏によぎる。
目の前の田中ではなく、記憶の中にある、今もきっと、彼にとっての日常をどこかで過ごしているであろう、そんな真澄の姿が。
マヤは、コックリと頷いた。

「それだけ好きで、会いたいと望んでいるのなら、勇気を出して、会いに行かれるべきです。居なくなった、会えなくなった、とおっしゃいましたけど、本当にそうなのですか?北島さんは、その人にもう一度会う為に、何か行動をなさったわけではないのでしょう? 乱暴な言い方だけれど、人間いつ死ぬかなんて、誰にも分からない。事故や、急な病気で、もしかしたら明日…なんて事だって。永遠に逢えなくなってから後悔したって、遅いのですよ」

その言葉は、マヤに強い衝撃を与えた。
まるで、初めて聞く言葉のようだった。

『そんなに会いたいなら…、自分から会いにいくべきです』
『その人が、生きてこの世にいるのなら』
『永遠に逢えなくなってから後悔したって、遅い』
『勇気を…だして……』

田中から言われた言葉が、ぐるぐるとマヤの頭を巡る。
呆然とするマヤに、

「…なんて、ふられた僕が言うべきことじゃないのかもしれませんが」

田中は自嘲するような笑みを浮かべて、肩を竦めた。




今夜はもうこれで…と言って帰ろうとする田中に、申し訳ない気持ちもありながら、だが泣きすぎて目を腫れ上がらせている事もあって、マヤは彼を見送りに立ちあがる。
すると一旦ドアのノブに手をかけた田中が、マヤを振り返り、

「実は…僕は舞台というものを観たのは、今日が初めてだったんです。しかしありきたりな感想ですが、とても…素晴らしかった。観る事が出来てよかった。今夜は招待してくださって、ありがとうございました」

丁寧に頭まで下げられて、マヤは慌てて、そんな…と恐縮する。

「北島さん…」

すると田中は、どこか改まった口調でマヤを呼んだ。
見上げると、優しげな眼差しがマヤをじっと見下ろしていた。

「こんな素晴らしい舞台を捧げられた、僕に似たというその人。貴女にこんなにも愛されている彼を、僕は心の底から羨ましいと…、そう思います」

声の中に切なさが混じって、田中のその顔を、どこか哀しげに彩る。

「……僕の、本音です」

言って、田中はニコリ…と、いたずらっぽく笑ってみせた。













紅天女、千秋楽の日。

公演が終わり、マヤは楽屋でひとり、名残を惜しむようにして、紅天女の打ち掛けを眺めていた。
今年も、最後の最後まで、阿古夜を演じきることが出来た。
これで…、また1年間、阿古夜とはお別れだ。

去年のこの楽日には、強い失望感を味わった。
紅天女の一月に渡る公演期間中、結局、最後の最後まで届けられることのなかった、あの薔薇。心に在った密かな期待を、ものの見事に裏切られた事に、去年は、舞台の後この楽屋で泣き崩れたのを覚えている。

そして…今年もやっぱり、あの薔薇があの人から届けられることはなかった。
その事に胸の痛みは確かにあるけれど、でも、そうやって届かない事や、会いに来てもらえない事を、ただ嘆くのは、散々やりつくしたと思う。


だからこそ、マヤは心に決めた。
この舞台が終わったら、真澄に会いに行こう、と。
最後に彼と会ってから、もう2年以上もの時が経過してしまった。
今更、もう何もかも遅すぎるのかもしれないけれど、でも、それでも会いに行こう。そう…決めた。

いざ会って、迷惑そうな顔をされたっていい。
何しに来たって怒られたっていい。
それでもいいから、あの人に会いたい。会って、この胸の想いを、全部伝えたいのだ。



───…コンコンッ

しんみりと物思いに耽っていたマヤは、突然のノックの音にピクッと肩を跳ね上げる。
今日はこの後、千秋楽の打ち上げパーティがある。マネージャーか誰かが呼びに来てくれたのだろう。思わずじんわりと涙が浮かんでいた目尻を拭い、マヤは慌てて鏡で瞳の色を確認しながら、言った。

「は…はい、どーぞ」

直後、カチャリと開かれた扉から覗いた顔を鏡越しに見て、マヤはちょっと目を見開く。少し意外な人物だったからだ。
田中だった。
彼とは、あの日以来会っていなかった。


実は、あの後、しばらくしてひとつの騒ぎが起こってしまったのだ。
田中とマヤが、以前食事をした後二人で街灯を散歩していた、あの姿をどうやらいつのまにか、どこかの記者に撮影されてしまっていたらしく、ある雑誌に『北島マヤに恋人発覚!?』と書き立てられてしまった。
すぐに交際否定のコメントを発表し、田中にはお詫びの電話をしたが、マスコミの手前会う事はしなかったし、林にもきつく止められていた。
だが今日は公演最終日。思い立って、今度は個人的に観に来てくれたのだろう。
ならば、今回一般人である彼を、妙なスキャンダル騒ぎに巻き込んでしまった事、ちゃんと謝らなければ。
マヤは慌てて彼を振り返る…が、その時、楽屋に入ってきた田中の、その手に握られていたものに気付いて、マヤは深く眉根を寄せた。
…紫のバラの花束。
何故また、彼がコレを持って来るのだろう……

「田中さん… あの…?」

問いかける様に見上げると、今度は彼が、訝しげに目を細める。

「……田中さん?」

ポツリと呟かれたその声に、マヤは目を大きく見開いて、呼吸を止める。
呆然とするマヤの視線の先で、彼は静かな足取りで彼女の目の前まで歩み寄ってくる。

「誰が…田中さんだって?」

その口から漏れるのは、低い艶のある声。そう…ベルベットみたいに、重みのある、田中とはあきらかに違う、その声。

(もしかして… もしかして… でも、でもまさか…っ)

「2年の間に、俺の名前すらも忘れてしまったか? ……薄情だな」

皮肉げな笑いを口元に滲ませ、遥かな長身からマヤを見下ろしてきた。
マヤは喉が詰まり、全く音にならない声で、彼の名を呼ぶ。

(…速水、……さん?)





04.15.2006





…to be continued










next / index / present top / event top / home