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□□第6話□□ 真澄には奇妙な癖があった。 いつものように無心にピアノを奏でていると、背後から一切の気配を消して近づいてくる。ふいに肩に手が触れたかと思うと、ブラウスの襟元を僅かにずらされ、肩の骨のくぼみのあたりに口付けられる。 一瞬にして全身が粟立つ。 肩から始まり、鎖骨、として首筋に真澄がいくつもの口付けを落としていく。 真澄の薄い唇が触れた部分の細胞だけが、眠っていた意識を呼び起こされ、思わず鍵盤の上の指が硬直する。 「続けて……」 口付けの合間から漏れたような、ゾクリとする擦れた声がそう要求する。意識の一番上の膜の部分だけを削がれていくような感覚。その摩擦に耐えながら、弾き続ける奇妙な快感。 ミリの単位まで、細胞の単位まで、自分はこの人のものだと漠然と自覚する。 傷つけられているわけでも、嫌なことを無理矢理されているわけでもないのに、何かもっとそれ以上の取り返しのつかないことをされているような錯覚に陥り、心が体ごと落ち着かなくなる。 その部屋でピアノを弾いていると、そんなふうに背中越しに何度か肩に口付けられた。 それが真澄の癖だった。 癖というよりも、そうせずにはいられない、といった刹那的な抗えない欲求がそこにはあった。 「君といると、俺は時々狂いそうになる」 一度だけ真澄のそんな言葉を聞いたことがあった。取り乱したことなど一度もない真澄の言葉としては、信じられないものに聞こえる一方で、それが嘘ではないのも、漠然とではあったがマヤには理解できる気がした。 純度の高すぎるものは、もろかったり扱いづらかったりすると聞いたことがある。若干の異物や不純物が混入されることによって、物質そのものが安定する原理。金とか銀とか。 愛も同じかもしれない。 あまりにも純度が高すぎるそれは、余計なものなど一切ないそれは、今にも壊れそうだった。 質や量ではない、愛を計るのは純度だとマヤは思う。 だから、本当に愛されているのは自分だと思えるだけで、この愛の純度は100%だと思い切れたし、それでいいのだと思っていた。 少なくともそう思うことによって、迫り来る”本物の現実”から目をそらしていた。 ”春”がきたら確実に訪れる、”冬の庭の終わり”という現実から……。 ![]() 「なんだ、来ていたのか」 灯りの消えた室内、誰もいないと思ったその部屋の暗がりの中にマヤの存在を見つけて、真澄は驚く。 「ピアノの音も聞こえなかったから、てっきり今日は来ていないのだと……」 マヤは閉じたピアノの鍵盤の蓋の上に頭を乗せて、どこか遠くを見ていた。体をくの字に折って、ピアノにうつぶせに覆いかぶさるその様子は、何かお腹の中に石の塊でも抱えているふうに見えた。 「探しものがあります。 一つぐらい、変わらない何か。 多分、永遠のようなもの……」 蓋の上で横向きになったマヤの顔がそう呟く。 その唐突さの意味が分からず、真澄が訝しげに聞き返す。 「今日撮ってきた、アヤコの台詞。 トロイメライを弾いたあと、こうやって鍵盤の上で泣くの」 ゆっくりとマヤは上体を起こすと、僅かに首を左右に振る。なんでもない、そう言葉にする代わりに。 「いくら弾けるようになっても、音は素人のそれだから、プロの人のを被せるんだけど、手はちゃんと私のを使ってくれるって、監督さんが……」 そうか、と頷きながら真澄は近づく。近づきながら、近づけば近づくほど、マヤがどこか自分の手の届かないところに離れていってしまう錯覚に襲われ、胃の辺りが奇妙に引きつる。 マヤのこの瞳が恐ろしかった。 迷いのない瞳。 それは、もうすでに何かに到達してしまった時にする瞳だった。自分ごときではもう介入することも、触れることも出来ない場所。それがどこなのか、漠然と予想して、全身に震えが走る。 「彼女にはピアノがあった。 他の何を失っても、全てに見放されても生きていけるもの、”多分、永遠のようなもの”と自分でそう呼んだような。 100年経っても、200年経っても、トロイメライはきっとそこにあって、それは例え一緒に生きてはいけなくても、100年経っても、200年経っても、その人を愛する気持ちはやっぱりそこにあるっていうのと同じで。 だから愛する人と一緒に生きていくことを選ぶ代わりに、ピアノを選んだんだって……」 真澄の恐れるマヤのその黒い瞳が、ゆっくりと真澄を捕らえる。それは少しずつ自分を包み込み、やがては無抵抗にさせる目に見えない膜のようなものだと真澄は思った。 「私のお芝居もそうなのかな、って」 「どういう意味――」 訳の分からないことに呑み込まれまいとするような、真澄の衝動的な叫び。一瞬ではあるが、真澄が本気で怒っているのだとマヤには分かった。その真澄の叫び声をマヤは静かに遮る。 「ねぇ速水さん、別々に生きて幸せになるのと、一緒に生きて不幸せになるのと、どっちがいいのかな……」 ――別々に生きて幸せになるのと、 一緒に生きて不幸せになるのと―― それは、二人の現実を端的に的確に、嫌になるほど正確に言い当てた言葉だった。 全てを捨てて、お互いだけを選び、それだけで生きていくという生き方を選べる立場に、二人はいなかった。 マヤは女優でなければ、北島マヤではなかった。 そして個人の感情だけで、全てを切り捨てられる立場に真澄はいなかった。 例え結婚が破談になったとして、そのあとにのしかかる業務提携問題や、会社の建て直し、厄介なものを万と抱える存在となる自分は、マヤを守るどころかその女優生命を脅かすことにさえなりかねない。無駄に所属事務所の社長などという立場であることも含め。 一緒に生きて不幸せになっても構わない。 そうは思えても、一緒に生きて、マヤまでもが不幸せになる現実を、真澄はどうしても選ぶことが出来ない衝撃を、自分の中に認めた。 そしてそれは、目の前のマヤにしてみても、同じことだ。 どうしたって、女優でいることを諦めることなど、この子には出来やしない。それは、死ねといっているも同然のことなのだから。 ピアノの椅子の上からこちらを見つめる黒い瞳。 その小さな顔を両手の手のひらの中に収めると、世界中の秘密を掻き集めたような声で真澄は言う。 「愛している」 マヤの片手が頬に置かれた真澄の手に触れる。 重ねるように。 想いをそこへ、重ねるように。 「知っています」 「愛している、愛している……」 次第に熱を帯び、うわ言のようになっていくそれに、マヤの体が椅子からふわりと持ち上がると、ガクリとタイルの上に膝をつく。 途端に溢れ出す、涙と声にならない叫び。 何一つまともに言葉にならないほどの嗚咽が、マヤの喉もとを押し上げる。 「これだけは信じて欲しい。 何があってもなくても、俺が生涯愛するのは君だけだ」 強く、強く、骨が折れるのではないかと思うほどに抱きしめられる。愛を強さで計れることはないとしても、これ以上強く抱きしめることは出来ないというほどの強さで。 「分かっています……」 その強さに応えられる言葉は、もうマヤにはそれしか残っていなかった。 別れ際、コートのポケットの奥で指先に触れた冷たい感触に、マヤは少し戸惑ったあと、何かを決心したように真澄に対して穏やかに告げる。 「もうこの家には来ないって約束するけれど、この鍵、持っていてもいいですか?」 異議はもちろんなくても、その真意が分からず、真澄は訝しげに僅かに顔を歪める。 「紫のバラの人が最後に私にくれたプレゼントだから。 あなたから貰った、何よりのプレゼントだから……。 ずっと大切に、お守りにしてもいいですか?」 自分も何があってもなくても、変わらずあなたを愛し続けると言葉にする代わりに、マヤは真澄にそう懇願する。 「ああ……、そうしてくれ」 その言葉に、マヤは3度頭を縦に振って頷くと、今にも泣き出しそうな顔で微笑み、静かに扉を閉めて出て行った。 真澄の耳の奥で、あの日タイルの上に落ちた銀色の鍵が放った金属音と同じ深さと重さで、扉の閉まる音が鳴り響く。 ![]() ――数ヵ月後。 成田空港の出発ロビーでは、ひっきりなしに飛行機の離発着の案内のアナウンスが鳴り続ける。自分の運命も、こんなふうにコールされ、それに従うだけであったらどんなに楽なのだろう、と馬鹿なことを考え、マヤは一人で苦笑する。 携帯電話はもう解約してしまった。最後にすることを思い出すと、公衆電話の場所までマヤはスーツケースを引っ張っていく。 「もしもし、水城さん? ごめんなさい、私、今から凄い勝手なことを言います。びっくりするなって言っても無理なほど、突拍子もなくて……。 あの、私、3年間日本を離れます」 受話器の向こうの声が絶句する。 当然だ。 「何を言ってるの、マヤちゃん! 今どこにいるのっ?!」 「成田です。11時35分のフライトで――」 取り乱したところなど見たこともない、真澄の有能な秘書のその様子が胸に痛く、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 「何を馬鹿なことをっ!第一そんなこと、真澄さまが、許すわけないでしょうっ?!」 「速水さんは……、全部分かっています。全部、その通りに受け入れてくれるはずです」 電話の向こうの水城は、いよいよ言葉を失って絶句する。 「ごめんなさい、ごめんなさい、水城さん。いっぱい迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。 でも私、こうしないと、もう生きていけないんです」 受話器の向こうから伝わる、今この回線が切れてしまったら最後、もう2度とその存在に触れることなど出来ないのでは、と思えるほどの儚さと頼りなさに、水城はもう全てが手遅れであることを悟る。 「マヤちゃん、私は待っているから。いつかあなたが帰ってくるのを、ここでずっと待っているから。 だって、紅天女を演じられるのはあなたしかいないのよっ!」 紅天女、その言葉が心の思わぬ部分を掴む。 自分の体の奥底、空っぽになってしまった自分の中の一番底に、残っていたもの。 そう、自分にはこれがあった。 「……はい、ありがとうございます。 速水さんにも、ご迷惑をおかけしてすみません、とお伝えください。それから――」 受話器を握る手に、頬を伝う涙が零れ落ちた。 もう泣かない、と決めたのに。 「別々に生きて、幸せになりましょう、って伝えてください」 涙が体の中に全て引っ込むまで。 いや、もしかしたら全ての涙が出尽くすまで、マヤは空港のロビーのベンチでじっと一人、自らのつま先を見つめて最後の瞬間が来るのを待ち続ける。 想いを断ち切る、最後の瞬間を。 ”ルフトハンザ航空9791便、フランクフルト行きのご搭乗手続きの最終案内をしております” それは自分を呼ぶ声だった。 そう思い込むと、マヤはその運命のコールに従うように立ち上がり、カウンターへと向かう。 映画やドラマの世界では、きっとここで運命の恋人が迎えに来る。行くな、もう離さないと、強く抱きしめる。 けれども今自分のいる現実は、慌しくも事務的に手続きを済ませ、荷物は目の前のベルトコンベアーで運ばれ、そして自分も運ばれていく。この場所から、どこか遠くへ。 運命なんて、誰が作った言葉なんだろう。 愛する人を不幸にする運命なんて、 自分は選べない――。 パスポートと搭乗券を強く握り締めると、マヤは出国ゲートへとまっすぐに消えた。 ![]() 最後にマヤがこの部屋に自分を残して出て行った日から、もう数ヶ月の日々が経つ。 ふと胸騒ぎがして、真澄は移動の途中で、駒沢へと車を走らせる。 果たしてそこには、マヤの姿はもちろんなく、あるはずもなく、あの日以来、一度も訪れることのなかったその場所で真澄は途方に暮れる。 もう、この場所で逢えることなどあるわけがないのに――。 躊躇ったのちに、アヤコ・ローゼンベルクがそうであったというように、自らの胸騒ぎに従って、真澄は茶色いベーゼンドルファーの前に座る。 トロイメライのメロディーが、指先から零れ落ちる。 何度も、何度もマヤの肩に触れた。 背中越しに彼女を見つめていると、今にもどこか遠くへ行ってしまいそうで、ともすれば目の前で全ては夢だったと消えてしまいそうで、衝動的に口付けてしまうのを止められなかった自分。わずかな紅い印が、束の間の所有の証であるかのように、そんな馬鹿なことをしていた。 ――ここで、最後の一回は物凄くルバートをかけるの。なかなかラの音を弾かないの。なんでだと思う? ――この最後の一番高いラの音は、キスの瞬間なんだって ドファー、ミ、ファラド…… 右手の小指が、楽譜に記されていない1オクターブ上のラの音を探して彷徨った瞬間、けたたましく背広の内側の携帯が鳴る。運命を予感して、全身に衝撃が走る。 「真澄さまっ!マヤちゃんがっ……!!」 有能な秘書の取り乱した叫びが、全てを説明する。 トロイメライが引き裂かれたその瞬間に、 マヤは真澄から遠く手の届かない場所へと消えた。 トロイメライのあのラの音は、永遠に鳴らなくなる。 冬の庭は、そうして100年の眠りについた。 ……はずだった。 04.16.2006 ![]() |
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