![]() |
|
□□第5話□□ 「この部屋って温室なんですか?」 窓の前に置かれたソファーの上には、光のカーテンが降り注ぐ。真澄の腕の中でまどろむマヤは、眩しさからというよりも、温かさから目を瞑る。瞼の皮膚でその冬の太陽が放つ光と温かみを感じていた。 「温室?」 耳元で、真澄が息だけでクスリと笑ったのが鼓膜に紛れ込んだ空気で分かる。 「だって南向きのこの壁は一面窓になってるし、床はタイルだし……」 「造りは似ているが、温室ではない。ヴィンターガルテンだな」 後から抱きすくめるというよりも、腕の中にすっぽりと閉じ込めてしまったその存在の頭の上に、真澄は愛撫とキスを交互に送る。 「ヴィンター……ガルテン?」 生まれて初めて聞くその言葉の響きを、マヤは舌の上でゆっくりと転がした。 「ドイツ語で冬の庭という意味だ。冬は寒くて外に出られないヨーロッパの人々には、この部屋が庭になる。そのために造られた部屋のことを言うんだ」 「冬の庭……」 それはどこか特別な響きを持っていた。二人以外誰も知らないこの部屋の呼び名として、それ以上に相応しいものはない気がした。 「素敵……」 ため息が半分だけ言葉になったような発音で、マヤはそう口にした。 透明なガラスの向こうから差し込む冬の光。 その温かさは、とても残酷だ。 それは、現実が冬であることを忘れさせるためのものであり、そして本物の春がくれば、忘れられてしまうものであるという意味において、 こうして今、自分を腕の中に抱き、心臓の鼓動さえ伝わる距離にいる真澄は現実のものではなく、春になれば他の誰かのものになってしまう真澄こそが現実であるということに、とても似ていた。 残酷な温かさ。 これはいずれ失われるものであるということを、本当に自分は分かっているのか、段々とその自信がなくなっていくのをマヤは漠然と感じていた。 現実が欲しかった。 本物の繋がりが。 ――だから自分は、 開けてはいけないはずの最後の扉を開けてしまったのだ……。 その夜二人は、珍しく庭に出て星を見ていた。二月の夜の外気は容赦なく頬の表面にピリピリと凍てつく痛みを与える。 ふとしたきっかけで星の話になり、冬こそ空気が澄んでいるので星座を見るにはいい季節だという真澄の言葉に煽られ、冬の星座の王者といわれるオリオンを見たいとマヤが言い出したのだ。 「あの赤く輝いているのがペテルギウス、その下の大きなのも一等星でリゲルだ」 「え、ど、どれですか?」 「だから、その右の上の斜め左だ」 「ど、どれが右で、どれが上で、斜めで左なんですかっ?!」 他愛もない会話。 シンと冷えた空気の中に、いくつもの笑い声がまざる。 笑った拍子にくしゃみを一つすると、真澄の背広のジャケットが肩にふわりとかけられた。 「ああ、こっからだとあそこの木が邪魔でよく見えない」 庭の正面に植えられた大きな樫の木が影となり、目の前の夜空を遮る。それはマヤの口から漏れた、ほんの小さな不満の声なだけのはずだった。 「秘密の場所がある。バラ園のアーケードの上部は上手い具合にぽっかりと空いていて、星を見るのにちょうどいい」 笑いながらそう言って真澄はマヤの手を引く。 その時、 ほんの僅か、本当にほんの僅かな何かがマヤの中で異物感として心に印を残した。それが何なのか、分かるようで分からないもどかしさ。 答えはそのすぐあとに、小さな薄いガラスが胸の中で弾けるかのように明らかになる。 冷たく輝く冬の星座の下で、次第に口数が少なくなる二人。 寒さが身に染みてきて、いよいよマヤがくしゃみを連発し始めたのを合図に、真澄はその悴んだ指先を取ると、戻ろうと促した。 引かれるままに、真澄に従うマヤ。 真澄の手のひらが、”冬の庭”と二人で呼んでいるその部屋の大きな格子窓をそっと押す。 窓は静かに動き、二人を部屋へと招き入れる。 背後で静かに閉まる窓。 全ての動作は違和感なく執り行われ、だからこそマヤは何が起こったのか、気付かずに通り過ぎそうになった。 借りていた背広を返そうと、上着を逆さでに持った瞬間、ポケットの中身が零れ落ちる。 冷たく冷えたタイルの床の上で、それは尖った金属音を響かせた。 静まり返った水面に落とされた小石のように、それは二人の間に静かな波紋を広げる。 お互いの耳の奥に残って離れない、その金属音。 気付かないふりをすれば出来たのかもしれないと、この時のことをあとでマヤはそう思い出す。 けれども震える指先は、波紋を広げたその小石を、冷たいタイルの上から拾い上げる。 電気をつけることも忘れ、真澄はその様子を呆然と暗闇の中から見詰める。 「ねぇ、速水さん、私ずっと前から思っていたことがあったんです。思っていたけれど、言えなかったことが……」 夜の影が全てを覆うその暗闇の中で、一切の言葉を失ったかのように、声を失ったかのように沈黙を守り続ける真澄に対して、マヤは静かに言葉を選んでいく。 「あまりにもあなたが自然にそうするから、思わず当たり前に私もそうしてしまったけれど、ここの部屋の窓、扉だったんですね。知りませんでした。押したら窓が動くなんて、普通思わないじゃないですか。 それからさっき、木が邪魔で星が見えないといったら、あなたは秘密の場所がある、と私を裏庭に連れて行った。もちろん私、夜になるとバラ園の上に、星座が見えるなんて、全く知りませんでした」 微動だにしなくなった目の前の真澄、暗闇に慣れてきたマヤの目に少しだけその輪郭が明らかになっていく。 「他にもいっぱいあります。この家の廊下にある、バスルームと洗面所、全く同じ扉が二つ並んでいるのに、あなたは初めてその扉を開ける瞬間から、どちらがどちらか知っていた。 隣の書斎の出窓、取っ手の部分が複雑で、私、開けるの凄く苦労したんです。押して、回して、つまみの部分をもう一度押さないと開かないんです。でもあなたは、最初からいとも簡単にその動作を流れるようにやってのけた。 それから玄関のポーチのランプ。あんなヘンな場所についているのに、速水さん、一発で探り当てましたよね」 雲が切れて、月光の筋が差し込み、二人の輪郭を闇に浮かび上がらせる。 「ねぇ速水さん、あの裏庭のバラ園。季節になったら、あそこに何色のバラが咲くのか、あなたはきっと知っている。 あなたは……、この家のことを知りすぎている」 マヤはゆっくりと手のひらの冷たい感触のその存在を差し出す。 「私の鍵は、今もコートのポケットに入っています。 合鍵を作れない種類のこの鍵が、あなたの上着のポケットから落ちました」 暗闇の中で、銀色の鍵が静かに光る。 それは開けてはいけないはずの最後の扉だった。開けてしまえば、戻ることが出来なくなるその扉に、マヤはゆっくりと手をかける。 『決して覗いてはなりませぬ』 その声も、今はもう100年も昔ほどに遠く、鈍く響くだけだ。 ――現実がほしかった。 ――本物の繋がりが。 「速水さん、ここはあなたの家ですね」 永遠と呼べる長さに手が届きそうな沈黙。 「……ああ、俺の家だ」 マヤの手のひらから零れ落ちる銀色の鍵。 二度目の金属音が、冬の庭に響く。 二度目のそれは、もっと深く、もっと遠く。 永遠に取り出すことなど出来ない、深い深い池の奥底へと落ちていくかのように。 「俺が……、 紫のバラの人だ」 その現実に向かってマヤは駆け寄る。 いや、 現実だと一瞬でも信じたものに向かって。 本物の繋がりだと信じたものに向かって。 激しく、強く、ありったけの力で掻き抱かれる。 今までのそれとは、明らかに違う、魂がぶつかり合うほどの強さでもって、口付けを交わす。 もつれるように、絡まりあうように、あとは銀色の鍵の後を追って、同じように堕ちていくだけだった……。 04.14.2006 ![]() |
| next / index / event top / home |