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□□第4話□□ なぜ、あんな嘘をついたのか――。 眼下に広がる、灰色の見慣れた東京の欠片を、真澄は無表情に見下ろす。脳裏には昨晩の出来事が、非現実的な残像となって甦る。 想定外の事態が起きてあんなことになったと思う一方で、どこかで自分はあの瞬間を待ち望んでいたことも否定できない。あの扉をマヤが開けて入ってくることを……。 嘘をつくつもりはなかった。 ただ、 真実を言うことも出来なかっただけだ。 今更、本当のことを言うなど――。 そこまで考えて、思考の全てが言い訳じみていることに真澄は苛立ちを覚え、右手の指の間で灰の砂になりかけていたタバコを、強く灰皿に押し付け揉み消した。 聖からの報告で、鍵を渡してから数日後のあの日、ようやくマヤがあの家に出向いたと知った。 駅へ向かう方向とは反対側の、あの家の門からは丁度死角にあたる場所に用心深く車を止めると、白い建物の隙間から漏れる黄色い灯りと、僅かに漏れ聞こえるピアノの音に耳を傾けた。 一体何をやっているんだと自分で思う。 ただの狂信的な自己満足であり、自己陶酔としか思えない。 一体いつまで紫のバラを、報われない自らの狂ったような愛の捌け口にして押し付けるつもりなのか――。 昔から予測の出来ないことが嫌いだった。 全ては、計算と分析と、傾向と対策で、この自分の手に負えないことなど一つもないはずだった。 それがこの少女を目の前にすると、全ての自信も全ての確信ももろくも崩れ去る。そんなものは、まるで初めからそこに少しもなかったかのように、魂を奪われた自分には、もうその存在しか目に入らなくなる。 予測のつかないそんな自分を排除しようとすればするほど、それは異様に輪郭をはっきりとさせながら、逆にその存在を主張する。 認めるしかなかった。 これは逃れられない運命なのだと。 だからこそ決めていた。 これを最後にすると。 これが最後の紫のバラ。 自分がしてやれることはもう何もない。紅天女まで自らの手で掴み取った女優に、一体なんの支援がこれ以上必要だというのだ。 ――紅天女後の最初の役を掴むまで。 それが真澄が、自らに対して切った期限だった。 本当は”紅天女を掴むまで”のはずだった。そこで潔く身を引くはずだったにも関わらず、偶然見つけたこの郊外の白い家。 前の家人が思わぬ負債を抱え、手放すことになったその家には抵当に入れられた数々の調度品とともに、一台のドイツ製の古いグランドピアノが置き去りにされていた。 ――それは運命だったのだ。 その時真澄はそう思い込んだ。 マヤの次回作が孤高のピアニストの生涯を描いたそれに決まったと聞いた日、知り合いから興味本位で持ち込まれた駒沢のその物件。 春になれば自分は結婚する。 どんな偶然でもいい、どんな奇跡でもいい、自らの運命が二度と取り戻せなくなる前に、その古いグランドピアノの置かれた白い家で、最後の夢を見たかったのだ。 そしてその運命の鍵を、自分はマヤに託した。 そして、運命の扉を開けたのはマヤだった。 あの家には、何かがある。 抗えないまでに自分を駆り立てる、何かが。 予想や期待とも違う、未来への葛藤の渦を自らの感情のうねりの中に感じ、真澄は身震いすると左手の中の冷たい硬質な存在を強く意識する。 それはあの日、紫のバラとともにマヤに託した銀色の鍵と同じ鍵だった。 あの家には、何かがある……。 ![]() 「教えて頂く約束とりつけておいてあれですけど、速水さんピアノ弾けるんですね。あの日、ほんとに私びっくりしちゃった」 二人がこの白亜の洋館で会うようになって、これが3度目。いつもはお互いの都合がつく時間が深夜になってしまっていたが、今日は日曜ということも手伝って、まだ昼間の明るい陽の差す時間に二人はそこにいた。 大嫌いなハノンに付点をかけて、転ばないように上昇し下降する練習を終えると、マヤは楽譜と閉じながら言う。 『どれだけ趣味であったとしても、ある程度の基礎がなければ何も弾けない』 というのが”先生”の持論だ。夢のトロイメライとは全く関係ないとは思っても、そうしてマヤはハノンの拷問に耐えていた。 格子窓の前に置かれた猫脚の長椅子の上で、同じようにその単調なハノンのスケールの拷問に耐えながら本を読んでいた真澄が顔をあげる。 「まともに空で弾けるのは、今はあれぐらいだ」 「トロイメライ……」 口にするだけで舌の上でまるで秘密の何かが融けてしまうような響き。 トロイメライ――。 「アヤコ・ローゼンベルクが一番好きな曲だったんです」 そしてそれは舌の上で融けた秘密を、そっと口にするような密やかさと甘さで響いた。 「いつも彼女が胸騒ぎがしてこの曲をふと弾くと、必ず何かが起こるの」 「何か?」 本を閉じて、いつの間にかピアノの横まで近づいてきた真澄が、自然な動作で横幅のあるピアノ椅子の端に並んで腰掛ける。 「彼女が生涯愛した、唯一人の人。その人に纏わる何かが起きるの」 真澄の指が髪を撫でる。 「3年ぶりに電話が鳴ったりとか、手紙が届いたりとか、偶然その人が隣の街に演奏会で来たりとか……。 あ、泣き声がするからドアを開けたら、その人にそっくりなネコがドアの前に居たこともあったんだって。人間にそっくりなネコってどんなのか、っていうのもよく分からないけれど……。とにかくっ、彼女はそのネコにその人の名前をつけて可愛がってたんだって」 真澄が薄く笑ったのが、耳元に当たった真澄の吐息で分かった。真澄の長い指が、一定のリズムと心地よさでもって、髪の間を梳いていく。 まるで恋人のようだった。 どちらも、そんなことを口にしたり、確かめあうこともなかったが、それはまるで恋人と過ごす時間のようだった。 そこには、奇妙なまでの自然さがあった。 そうすることの矛盾よりも、そうしないことの不自然さが際立つような空気。 随分と昔に、梅の谷でごく自然に二人で手を繋いだことがあった。あれは梅の谷が見せてくれた束の間の幻影だったと、マヤは後に思ったりしたが、それに通じる空気がここにはあった。 二人がこの家の外で会うことは、仕事上当然のごとくあったが、それは完全なる他人であった。 こんなことになるのも、そしてこんな気持ちになるのも、全てはこの家に居る時だけ。 ――この家には何かがある。 漠然とマヤはそう確信していた。 「その人が死んだ時も、やっぱりトロイメライだったんだって」 髪の間を泳いでいた真澄の指が止まる。 「やっぱり真夜中に”弾け”という声がしたから――彼女は頭の中にいつも、誰かの声が聞こえるんだって。弾かなければいけない時は――、トロイメライを弾き始めたの。 弾き始めてすぐに、ああこれが別れの時だって、分かったの。 トロイメライって、こういうメロディーを繰り返すでしょ?」 そう言って、マヤは右手で旋律の上声部だけを拾い出す。 ドファー、ミ、ファラドファ…… 聞き慣れたそのメロディーがマヤの指から零れ落ちる。 「繰り返して、繰り返して、最後の一回の時、彼女の師であったその人は、ずっと昔に彼女がまだ彼の生徒だった頃、一番高い音のラの時にね、1オクターブ上のラの音を一緒に弾くの」 同じメロディーを繰り返して弾いていたマヤの指が、1オクターブ上のラの音を探す。その場所にそっと手を差し伸べるように、真澄の指が伸びる。 ドファー、ミ、ファラド…… 「ここで、最後の一回は物凄くルバートをかけるの。なかなかラの音を弾かないの。なんでだと思う?」 恋人のような会話はの中で、いつしか語尾から敬語は削がれ、ただ甘い響きと余韻だけが音の間に残る。 「この最後の一番高いラの音は、キスの瞬間なんだって」 そして二人は同時に、ラの音に堕ちていく。 重なる唇。 途絶えるメロディー。 こんなふうにして、アヤコ・ローゼンベルクも愛するその人と刹那的な口付けを交わしたのだろうか。 結ばれることはなかった相手、物理的に繋がった関係で居られることは生涯に渡ってなかったけれど、それでも唯一無二の存在であったといえるその最愛の人の死の瞬間を、アヤコはたった一人で遠く離れた場所で、トロイメライと供に迎える。 その愛すべき物悲しいメロディーが最高音部のラに達した瞬間、口付けの瞬間と自ら師がそう名づけたその瞬間に達した時 、けたたましく電話のベルがなり、師の訃報が伝えられる。 『あの人は、最後に私にキスをしてから逝ったのよ』 インタビューでアヤコはそう微笑をたたえていた。 結ばれることはない相手。 けれどもたった一人、 世界でたった一人の存在と言い切れる存在。 その人との最後のキスの重さと深さを想像して、マヤは気が遠くなる。 目の前で当たり前のように重なるその口付けの甘さに、気が遠くなる。 けれども終わりは確実にやってくる。 春になったら、この人は――。 1月は行ってしまう。 2月は逃げてしまう。 3月は去ってしまう。 4月なんて……、 来なければいい。 冬の庭に、春の日差しかと錯覚するほどの白い冬の太陽が、二人を射るように差し込む。 04.13.2006 ![]() |
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