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□□第3話□□ その時、 目の前のありえない光景を薄い膜のように包んでいたトロイメライが、突如、機械的な電子音によって引き裂かれる。 窓辺に置き忘れた携帯が、鳴ったのだ。 限界まで張詰めていた緊張が思わぬ瞬間に破裂し、咄嗟にマヤは大きな音を立てて、ドアを開けてしまう。 驚いて振り返った真澄の左手が鍵盤にぶつかった拍子に出た、もうトロイメライではない不協和音が、瞬時に変わってしまったその異質な空気の中に取り残される。 永遠に鳴り続けるかと思われた電子音。 「取らないのか」 奇妙なほどに冷静な真澄のその声に、マヤはかすかに首を左右に振るのが精一杯だった。 それからもう2コールだけ、その果てしなく機械的な呼び出し音は、痛々しいほどに見当はずれなけたたましさで二人の間に響くと、異次元に吸い込まれるように消えた。 「灯りが消えていたので、もう帰ったものだと……」 「……携帯、……忘れて――」 不可解なまでに冷静な真澄のその態度に翻弄され、マヤは混乱したまま、途切れ途切れに単語を発する。 「そのようだな」 フッと鼻孔から僅かに空気が漏れる、真澄特有の苦笑がその言葉の上に被さる。 その落ち着き払った態度は、マヤには全くもってありえないもので、これは『決して開けてはいけない扉』を開けてしまった自分が迷い混んだ異次元の世界なのではないかとさえ思う。 「どう……して……」 やっとの思いでマヤの喉もとを通過したのは、それだけだった。 「どうして? なぜ大都芸能の社長の速水真澄ともあろうものが、今、この場所に、よりによってこんな場所に居るのだと、おそらく君は聞きたいのだろうな」 どこか嫌な予感がした。 その落ち着き払った真澄の態度、芝居じみた台詞運び、全てはフェイクだと直感的にマヤに思わせる何かがあった。 この人は、きっと今嘘をつく。 そして、その嘘は3秒後。 「チビちゃん、君は大事な商品だ。紅天女となった今は、大都芸能一の看板女優、ひいてはもっとも価値のある商品と言っていいだろう。 大事な商品に何かあっては困る。悪いが君の不可解な行動は、時にこちらに監視されているということも覚えておくといい。 君が何時間も民家に忍び込んで、深夜まで一人でピアノを弾いていると聞いて、監督責任者として注意に来たとでも言えばいいかな。 もっとも看板女優は、入れ違いで飛び出していったあとだったが、君のおっちょこちょいのせいで、結果、こうして会うことが出来た。俺は目的を達せられる。世の中、上手く出来ている」 計算しつくされたかのように、抑揚までコントロールされたその言葉を、体ごと、内臓ごと凍りついた面持ちでマヤは聞く。 「どうやって、入ったんですか?だって、鍵――」 「開いていた。君が掛け忘れたんだろう」 ――絶対にそんなはずはない。 瞬間的な心の叫び。 つい今しがた、指先で確かに感じた銀色の鍵の感触を思い出して、マヤは咄嗟にそう否定したが、それは声にはならなかった。 開けてはいけないはずの扉。 開けてしまったのは、他でもないこの自分。やめろ、というその声にも従わずに開けてしまったその向こうに待っていた現実。 マヤは静かに息を吸う。意識的に、意図的に、心と体のどこかに武装をするかのように。 「心配には及びません。 民家に忍び込んだわけではありませんから。 この家、私の大切なとあるファンの方が私のために用意してくださったんです。今度の映画の役作りのためにと」 「なるほどな。そのファンというのは――」 「ええ、紫のバラの人です。何度も私が口に出しているので、速水さんも知ってらっしゃいますよね」 窺うように、真澄の表情をマヤは見据える。 「ああ、有名な君の幸せなファンだな……」 「幸せかどうかは、知りませんけれど」 その一言は、どこか挑戦的に、反抗的に響いた。 その僅かな棘に真澄は気付いたのか、無視を決め込んだのか、不自然な咳払いを一つすると、マヤのほうに一歩近づく。 「チビちゃん、この家がその『紫のバラの人』とやらに用意された、れっきとした君のための城だということはよく分かった。住居不法侵入ということでも、もちろんないということも。 けれども俺が言っているのは、そういうことだけではない。 若い女優が深夜にこんなところに一人で居ることの危険性を言っているんだ」 そこまで来て、真澄の言葉尻の空気が僅かに変わる。 「君のことが心配なんだ」 一体どこまでが、この人特有の嫌味と威圧の仮面で、どこからが本心なのか、マヤは全く分からなくなる。 真澄がまた一歩、こちらに近づくと、纏わりつく空気の重さが変わる。その狭い密室という名の空間の中で、俄かに空気そのものを目の前の相手に支配されていくという錯覚。 それは真澄がかけた魔法だったのかもしれない、と後にマヤはこの瞬間のことを思い出してみる。 気がつけば、手を伸ばせば触れられる距離。けれども触れてきたのは真澄のほうだった。すっと上がった右手の指先が、頬の輪郭に触れる。 「そんなにピアノが弾きたいのか?」 「……はい」 「この家で練習したいのか?」 「……はい」 「ここでなければだめなのか?」 「……はい」 それはまるで『はい』と答えることしか許されない催眠術をかけられたかのように。真澄の指先が触れた頬のあたりから、全身に甘い痺れが伝わる。 「君は困った女優だな。我侭で、突拍子もない。人に心配ばかりかける。 本当に困った女優だ」 否定されることには慣れていた。それがこの人のやり方であり、真意がそこにないということも、もう分かっていた。自分はただその真意が振り下ろされる瞬間を待っていた。何か圧倒的な力が自分に降りかかる瞬間を。 「ここで練習したいというなら許可しよう。ただし、一人で練習するのは許さない。危ないからだ」 ジリジリと歪んだ空気が自分の周りだけをきつく取り巻く。真澄によってかけられた催眠術は、自らの唇までもを乗っ取る。 「じゃぁ――」 きっと今、自分の瞳は真澄が望んだ通りの瞳をしているのではないかとマヤは漠然と思う。真澄の思惑通りに揺れる水面を湛えた黒い瞳を。 「あなたが一緒に居てください。 そんなに心配だというのなら、ここに居るときは、 あなたが私の側にいてください」 「悪くないアイデアだ」 穏やかな無表情ともいえる、満足気な笑みを真澄は浮かべた。それは確かに穏やかで満足気ではあるが、予定通りの答えを相手から引き出したという満足感からくるという意味において、どこか用意されたような表情だった。 「ピアノも……」 僅かに残っていた力を振り絞って、零れ落ちたようなマヤの一言。口角を僅かにあげて、表情だけで真澄はそれを聞き返す。 「ピアノも教えてください」 まるで熱に浮かされたような一言だと、マヤは自らの声に対して思う。 頬の輪郭に触れていた真澄の指が、熱を持ったその唇に触れる。 「ああ、教えてやる……」 頬を包み込む大きな手のひら、その親指が唇の輪郭を一度だけ強くなぞる。 「ただし……、 ここでのことは、全て二人だけの秘密だ」 「はい……」 喉もとでかすれたその答えを最後に、マヤは熱に浮かされた患者が意識を手放すように、瞼を閉じる。 閉じた瞼の裏で、数を数える。 1、 2、 3、 唇が重なる。 柔らかな唇の感触の裏側で、孤高のピアニスト、アヤコ・ローゼンベルクが生涯でただ一人身も心も捧げ愛した人物は、妻子のある、年の離れた自らの師であったことを、マヤはぼんやりと思い出していた。 04.12.2006 ![]() |
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