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written by lapin




「お足元にどうぞお気をつけなすって。ここはよう滑りますよって」

そう言い言い、丸い背中がゆっくりと苔むした石段を登っていく。どうしてよりによってハイヒールなんて履いて来てしまったんだろう。光沢のある平たいリボンで足首を結わえられた自分の足元を見つめながら、マヤは溜息を吐いた。理由はわかっていた。ちらりと後ろに目を遣ると、大きな革靴が一歩一歩と石段を踏みしめている。その隣には華奢なベージュのパンプス。張り合っても仕方ないのに。

「疲れた?」

隣から降って来た柔らかい声に、マヤははっと意識を取り戻した。どこか疲れた表情のハイヒールの横に並ぶ、軽快な紺と白のコンバース。すっかり忘れていた。

「ううん、平気」

「あぁ、もおすこーしでお宮さんの鳥居が見えてきますよって。あいすみませんねぇ」

人懐こい笑顔が肩越しに桜小路とマヤに向けられていた。



近畿地方のとある山奥の小村。
通常の公演とは別に紅天女の奉納が行われることになり、マヤと桜小路をはじめとする少数のスタッフ、および興行主の真澄とその婚約者・鷹宮紫織の一行はこの地を訪れていた。利益を度外視した企画が通ったのは、この村が古くは銀鉱を擁し、その採掘を指揮した一族がこの地を離れた後も財界に重要な位置を占めていることに関係していた。鷹宮家とも縁の浅くない一族からの申し入れに、英介は快く首を縦に振った。奉納を無事見届けるのは、当然真澄の役目だった。梅の里にも同行した紫織が今回も着いてきたのは、もはや婚前旅行の感を呈していたが、誰も何も言わなかった。式は翌月に迫っていた。



石段を登りきると、山奥に似つかわしくないほど立派な楼門が聳え立っていた。先頭を歩く宮司が立ち止まり、丁寧に頭を下げる。四人もそれに習って頭を下げた。楼門の先には石灯籠の並ぶ参道が続き、鬱蒼と杉木立が茂っている。山そのもののような荒々しい杉だった。顔を上げると、鳥居も社も押し潰すように山が黒々と聳えている。木立に切り取られた空を鳥の影が横切り、マヤはふと二の腕にひんやりとしたものを感じた。ここは神域だ。大して信心深い方でもないが、有無を言わさず、そう思わせるものがこの場所にはある。

背中に軽く手が触れた。振り返ると、真澄がこちらを見下ろしていた。いつの間に置いていかれていたのだろう、桜小路と紫織の背中が前方に見える。

「どうした?緊張しているのか」

真澄の声は低くて耳に心地いい。いつ聞いてもぞくぞくするような喜びを与えてくれる声だとマヤは思う。

「別に。早く行かないと置いていかれますね」

素っ気無く答えると、マヤはさっさと歩き出した。後ろで真澄がくすりと笑った。

「チビちゃん。参道は端を歩くものだ。真ん中は神様が通るんだ」

大きな手が左肩に一瞬触れ、次の瞬間に端正な横顔が傍らを通り過ぎた。広い背中から目を離すことなく、マヤは真澄の後をゆっくりと歩き出した。

手水を済ませると、四人は拝殿の前で丁寧に頭を下げた。どこか懐かしい鈴の音が静まり返った森に吸い込まれていく。

「さぁさぁ、どうぞこちらに。ほんに何ものうてお恥ずかしい限りですわ」

黒光りする板の間に、座布団が並べられている。下の村から案内してくれた中年の宮司が、少しも疲れを見せることなく、甲斐甲斐しくお茶を淹れている。マヤはぼんやりと座りこんだまま、拝殿の向かいに建つ神楽殿へと目を向けた。何もない板の間をぐるりと柱が囲み、壁が取り払われた神殿の向こうに山の緑が見える。夜には松明の火が焚かれ、煌々と照らし出された舞台の上で天女が舞うだろう。

「…こちらに祀られている神様は?」

真澄が尋ねていた。

「はあ、千者様と申します」

「千者様?」

「珍しいですやろ。千者様はおひとりの神様ではのうて、千の神様のことを申しますのや。海の神様も山の神様も、悪い神様も良い神様も、学問の神様も漬物石の神様も、みーんな千者様と申して大切にお祀りさせていただいてます」

「漬物石の神様?」

桜小路が素っ頓狂な声を上げた。

「はあ。この世にあるすべての物に神様が宿っておりますさかい、漬物石にもちゃーんと神様がおわします」

宮司がにこにこしながら答えた。

「悪い神様なんていらっしゃいますの?」

紫織が小首を傾げながら不思議そうに呟いた。

「それはもう、悪さが大好きな困った神様もおわします。せやから、ちゃんとお祀りせんならんのですわ」

「なるほど。日本古来からの八百万の神というわけですね」

真澄が頷き、宮司がうれしそうに微笑んだ。不意に言葉が途切れ、耳に痛いほどに静けさが際立った。風が通り過ぎ、木の葉が掠れる音が不気味なほどに大きく響く。紙垂れが白く舞う。

「昔は村ももっとようけ人がおりましてな、千者様のお祭りの日ぃには市が立ったもんです」

しんみりとした声で宮司が言った。

「お祭り?」

誘われるようにマヤは口を開いていた。

「はあ。千者祭りと申しましてな、何でも願いが叶う夜やと信じられとったんですわ」

「何でも願いが叶う…」

「願いと申しましてもな、実際のところは…あー、いやいや、こんなこと、お若い女の方の前で申し上げてもよいものやらわからんのやけども…」

宮司が顔を赤黒く染めながら頭を盛大に掻いた。

「つまり、無礼講の夜でしたんや。誰でも思いを遂げられる夜と申しましょうか…」

早い話が乱交ということだ。近代以前の日本は現代よりもはるかに大らかな気風で、農村では夜這いが公認されていたと言う。まして祭りの夜はあの世とこの世が繋がる夜。人は一夜だけ神となり、漆黒の闇の中で自在にまぐわう。

「さあさ、ごゆるりとお休みください。あちらにご用意をさせていただきましたよって」



すぐにスタッフが到着し、仮設されたテントが控え室として整えられる。衣装が運び込まれ、小道具が運び込まれ、俄かに辺りが賑やかになる。ほっとしながらも、マヤはざわざわと胸の中で鳴り続ける何かを持て余していた。

「マヤちゃん…?」

桜小路が声を掛けてきたが、マヤはそのまま表に出た。物言いたげな目に常に追いかけられるのは正直疲れる。それに、胸の中に自分でもコントロールできないものを抱えている状態で、さらに何かを期待されても応える自信がない。

風が木の葉の間を通り抜けていく。ざわざわ、ざわざわ。擦れ合う葉っぱ同士の上げる声が、どうしてここではこんなに耳に響くのだろう。また二の腕がひんやりとする。なぜか立ち止まることが躊躇われて、マヤは早足で歩き出した。白袍と白差袴に着替え、冠を被った宮司が拝殿の前で紫織と何やら話している。神楽殿はスタッフでいっぱいだ。みな忙しそうに立ち働いている。マヤは急いで裏山の方角へと踵を返した。細く足場の悪い道だ。ピンク色のサテンのヒールはもうボロボロだ。

何で私は逃げるようにして山の奥に入って行っているんだろう。

胸の中のざわざわが一段と大きくなる。それに応えるように頭上の木の葉が一斉に囁き出す。

”耳を澄ませ。なぜ目を背ける?おまえにはちゃんとわかっているはずだ。さあ。さあ…!”

激しい風が辺りの木の葉を巻き上げるように吹き上がり、鳥が一斉に飛び立った。思わず瞑っていた目を恐る恐る開くと、目の前にお堂があった。

お堂なんてあっただろうか。中に人が入れるくらいのけっこうな大きさのものだ。狐に摘まれたような気分になりながら、マヤは身を屈めて中を覗いた。薄暗いお堂の奥に、赤々と焚かれている火と供物、仏花がぼんやりと見える。薄闇の中に鬱金色の仏像らしきものが浮かび上がっている。その両脇には何の神様だろう、二体の神像が安置されていた。線香の煙が白く漂い、独特の匂いが鼻を吐く。

「面白いな」

不意に背後から低い声が響き、マヤは妙な声を上げながら飛び上がった。

「は、速水さんっ!」

いつの間に現れたのだろう。真澄が隣に立っていた。熱心な顔でお堂を覗き込んでいる。

「ここは神社だろう?祀られているのは神様だ。だが、このお堂はどう見ても仏教式だな。もっと古い時代には神社と寺はひとつだったんだ。明治の廃仏毀釈でお堂が山奥に追いやられたんだろう。こうして残っているとはな。面白い」

マヤには何が面白いのかさっぱりわからなかったが、真澄が気軽に話しかけてくれるのがうれしかった。喉の下に固いものがせり上がってくる。

”…なぜ目を背ける?おまえにはちゃんとわかっているはずだ。さあ。さあ…!”

「あの、速水さん…」

真澄が肩越しに振り返った。真っ直ぐな瞳が当然のように自分の言葉を待っている。ひたと見据えられ、マヤの動悸が急速に上がっていく。

「あ、あの、その、お参りしませんか!?ほら、せっかくだし…」

真澄がぷっと吹き出した。ポケットを探ると、数枚の硬貨をマヤに握らせ、自分も手にする。

「あ、速水さんも願い事とかするんですか?」

「するさ。なんだ、文句でもあるのか」

真澄が片眉をひゅっと上げながら答えた。

「べ、別に」

”俺の願い事は一生叶わない”

あの願いは叶ったのだろうか。それとも、まだ願い続けているのだろうか。

「チビちゃんこそどうなんだ?何を願うんだ?」

「そんなこと言ったら叶うものも叶わないじゃないですか」

真澄が瞬間複雑な顔をした。マヤは気づくことなく硬貨を賽銭箱に投げ入れると、勢い良く手を打った。

「おい、神社じゃないんだ。拍子は余分だろう…」

ふたりは目を瞑ると、頭を垂れた。

”千者様、何でも願いを叶えてくださるのなら、どうかひとつだけ私の願いを叶えてください”

”一生に一度でかまわない。どうかこの願いを”

”どうか…”

”どうか”

竜巻のような激しい風が天へと舞い上がった。



ふたりは恐る恐る目を開いた。辺りは静かだった。心なしか、暗い。違う。顔を上げると、漆黒の闇が空を艶やかに覆っていた。

「暗い…」

マヤが呟いた。

「ああ。まるで夜みたいだ。大風のせいで暗くなるなんて聞いたことがないが…」

「みんな大丈夫でしょうか。ほら、テントとか倒れちゃったり」

「ああ、そうだな。様子を見に行った方がいいな」

真澄の後に着いて歩き出した瞬間、強く手を捉まれた。体が引き寄せられ、足が縺れ合う。強い力で押される。わけがわからなかった。大きな手が口に押し当てられ、声を出すこともできない。気づくと、真澄とふたり、お堂の中にいた。真澄の手で急いで扉が閉められる。息遣いを潜めた真澄が、唇の前に人差し指を立ててこちらを振り返る。声を出すな、ということのようだった。マヤをじっと見つめながら一度首を縦に振ると、真澄は人差し指と目線でお堂の外を示した。真澄の隣ににじり寄ると、マヤはお堂の外を窺った。

山の奥から松明の火が近づいてくる。点々と連なる火の数は一体いくつあるのだろう。無数の足が草を踏みしめる音が延々と続く。遠い地響きのようだ。こんなに大勢の人が一体どこから現れたのだろう。しかも、誰も口を利かないのは一体どういうことなのか。奇妙に思いながら見つめていると、先頭の松明がお堂の手前の曲がり道に差し掛かった。

「あっ」

思わず声を出しそうになり、マヤは慌てて声を呑んだ。松明に照らされていたのは大きな河童だった。いや、河童の実物を見たことなどないから、きっと河童に違いないと言うしかないのだが。頭に皿を被り、口の場所に嘴を持つ、異形の生物。体は案外ほっそりし、目はしょぼしょぼとしてどこか哀しげだが人間の目だ。水かきのついた手で器用に松明を持ち、黙々と歩いていく。その後ろには着物姿の女性。髪を不思議な形に結い、何か腕に抱えている。

”琵琶…弁天様?”

アパートの玄関のゲタ箱の上に飾られた七福神がぱっと目の前に浮かんだ。間違いない。そう考えると、あの長い白い髭を生やし、杖を手にした老人は寿老人?そう言えばおとなしそうな鹿を連れている。鹿は周囲の歩調にちゃんと合わせてぽくぽくと歩いている。信じられない。へなへなと力が抜けたマヤの体を、真澄の腕が支える。目だけは外の幻のような光景から離せないのだ。笠を被った毛むくじゃらの生き物。刀を手にした恐ろしい形相の武者。両手から花びらを撒きながら軽やかに通り過ぎる美しい娘。空を桃色の竜が飛び、白い大蛇が草の上を這って行く。

「…嘘でしょう」

行列が通り過ぎた後、マヤは掠れた声で呟いた。

「ああ、本当とは思えない…」

お堂の壁に寄り掛かって足を投げ出したまま、真澄が前髪を掻き上げながら大きく息を吐いた。

「コスプレ、とか」

「なぜここで?しかもあんな手の込んだ?君も見ただろう。特撮じゃないんだぞ、あの竜は!」

「だから、じゃあ、何だって言うんですか!?」

ふたりは顔を見合わせた。

「…ここは、ここであってここじゃないんだ。つまり、本当に信じられない話だが、異次元に入り込んでしまったんだよ、俺たちは」

「異次元」

「ああ。今お堂の前を通って行ったのは千者様たち、つまり、八百万の神様だろう」

「神様…」

ふたりの間に沈黙が落ちた。

「でも、どうして…」

ぽつんと零れ落ちたマヤの言葉は真澄の思いでもあった。

「まさか…」

はっと口元に手を当てながら、マヤは目を見開いた。

”私の願いを…”

「どうした?」

真澄が身を乗り出した。お堂の中は天井も低く、ふたりで座るとかなりいっぱいいっぱいだ。マヤが反射的に体を退き、真澄もはっとしたように座り直した。

「なんでも、ないです。あの…速水さんはさっき何をお願いしたんですか?」

今度は真澄がごくりと唾を飲む番だった。

「いや、大したことは…」

「そうですか…」

風が扉を揺らし、お堂の周囲を巡って通り過ぎていく。

”耳を澄ませ。なぜ目を背ける?おまえにはちゃんとわかっているはずだ。さあ。さあ…!”

まただ。あの囁きが頭をもたげる。これはチャンスなのかもしれない。ふとそんな考えがマヤの心を過ぎった。

「速水さんは、ご結婚されるんですよね」

不意に口を開いたマヤが言い出したのは、いま真澄が一番話題にしたくないことだった。紫織との結婚。

「どうしてそんなことを聞くんだ」

思わず口調がきつくなる。せっかくここは異次元で、どうやって元の世界に帰ればいいのか皆目見当がつかないのは本来不安なはずだが、マヤとふたりなら別にそれでもいいような気もしていて、ふたりきりなんて滅多にないことだし、もうこれが最後かもしれないのに…最後。重い塊が胸をふさいだ。

「別に。ただ、聞いてみただけです。あの、お祝いとか私どう言えばいいかよくわからなくて、ほんと気持ちだけになっちゃうんですけど、でも、おめでとうございます。幸せに、なってくださいね」

重苦しい沈黙が落ちた。

「…だから、まだ結婚したわけじゃない。だいたい、どうして君が俺の幸せを願うんだ?逆だろう?」

「そんなことない!」

強い口調だった。不貞腐れたように背けていた顔を上げると、真澄はマヤの顔を見つめた。心臓がどきりと音を立てた。強い眼差しだった。大きな黒い瞳が濡れたように輝き、必死に何かを伝えてくる。真澄の口が一瞬で渇いた。

「…速水さん、覚えてます?ちょうどこんなふうに一緒に夜を過ごしたことがありましたよね」

”一緒に夜を過ごす”というフレーズに眩暈を覚えそうになりながら、真澄は理性をかき集めた。

「ああ、社務所だろう」

マヤが感慨深げに頷いた。

「あのとき、言ったはずです。もう嫌ってないって」

「ああ、そうだったな。俺も君を嫌いだと思ったことは一度もない…」

奇妙な空気がお堂を満たしていた。息苦しいような、何かを心待ちにしているような。

「あなたに喜んでもらえるような紅天女を演じたいって、あのとき言いましたよね」

マヤは遠くを見つめているような、自分の心の中を見つめているような、不思議な目をしている。

「ああ、そうだな。俺は君の紅天女を見た瞬間、死んでもいいと思った…」

真澄がぽつりと呟き、マヤが目を見開いた。

「速水さん…」

風が杉の梢を揺らしている。

「私は、ずっとそれだけを願ってました。なぜだかわかりますか?あなたに紅天女を見せたいって、私の紅天女を見てほしいって、私だけを見てほしいって…!」

「マヤ…」

「あなたが紫のバラの人だからあなたを好きになったんじゃない。ずっとあなたが好きだった。あなただけを見てた。あなたにだけ見ていてほしかった」

真澄の顔からあらゆる表情が一瞬で消えた。仮面のような端正な顔を見つめながら、マヤは心の中でひとつ溜息を吐いた。これでいいのだと思った。胸のざわざわは嘘のように落ち着いている。言えただけでよかったのだ。

「大丈夫ですよ。だから何ってわけじゃないですから。言えて、よかった」

噛み締めるように言うと、マヤは俯いた。傍らで真澄が身じろぎしたようだったが、顔を上げなかった。

「なあ、マヤ」

真澄の声が降って来る。

「俺がさっきどんな願い事をしたと思う?君と…いたいと、願ったんだ。偶然君とあそこで会って、これが最後のチャンスかもしれないと思った。君に何も言わずにこのまま結婚したら、俺はきっと死ぬまで言えないだろう。だから、臆病な俺に与えられた最後のチャンスだと、そう思った。つまり」

そこで真澄は言葉を切ると、深い溜息を吐いた。真澄の緊張が直に伝わってくるような気がして、マヤは思わず息を止めていた。耳にしている言葉がそうとしか考えられないのに、やっぱり信じられなかった。顔を上げたらすべてが消えてしまうような気がした。

「君に紫のバラを贈っていたのは確かに俺だ。君がすでに知っていたなんて…驚いた。しかも、君が、その、どういうつもりかはわからないが、俺を…」

死んでも顔なんて上げられない。固く目を瞑ったまま、マヤは俯いていた。

「誤算だった…」

溜息のように真澄が呟いた。マヤの心臓がきりきりと痛み出した。

「もう、いいですから」

「いや、よくないんだ。先を越されるのは嫌なんだ」

「は?」

思わず顔を上げていた。真澄は今まで見たことがないような、複雑な顔をしていた。憮然としているような、そわそわしているような、ひどく人間臭い顔だった。意外だった。

「だから、好きだと先に言いたかったんだ」

「何を?誰を?」

「だから!」

不意に長い腕が伸び、真澄の胸に強く顔を押し付けられていた。本当に息が止まりそうだった。

「俺は君が好きなんだ。ずっと好きだった。たぶん出会った頃から」

真澄の心臓の鼓動が直接響いてくる。強くて温かい音だった。

「ありがとう…。うれしい」

マヤの腕が背中に回されているのを感じ、真澄は全身を物凄い勢いで血が巡り始めるのを感じる。くらくらした。

「私、ずっと忘れないですから。何があっても」

マヤの声は小さかったが、こつんと胸に当たって戻ってくるような違和感を真澄に感じさせた。

「マヤ…?」

「絶対、幸せになってくださいね。私のことは、忘れても…」

不意に背中に回された腕が小刻みに震え始めた。

「何を言ってるんだ!?」

マヤの肩に両手を掛けて引き剥がすと、真澄は首を屈めて小さな顔を覗き込んだ。涙が目尻から頬を伝って顎の下へと落ちていく。心臓がぐしゃりと潰れるような気がした。

「だって、速水さん、紫織さん…」

「君は誤解してるようだが、俺は何も一時の気の迷いでこんなことを言い出したわけじゃない。ずいぶん見くびられてるんだな…。君を忘れて幸せになれ?そんな無茶苦茶なことを言われて、はい、そうですか、と言えるか。この馬鹿娘」

「馬鹿って…」

「馬鹿だ。俺は何があっても君のことを忘れないし、君が隣にいなかったら絶対に幸せにならない。以上だ」

マヤが一瞬黙りこくり、次の瞬間にめそめそと泣き始めた。どうしたらいいかわからないけどほっとした、という本人の気持ちが手に取るように伝わってくる泣き方だった。やれやれ、と思いながら、真澄は再びマヤを引き寄せ、細い背中を優しく叩いた。

「なあ、マヤ。ここは不思議な場所だ。千者様が叶える一夜限りの夢の中に俺たちはいるのかもしれない。夢はいつか醒める。俺たちはいつか死ぬ。でも、人生が一回限りの夢だとしたら、俺はその夢を君とともに見たい。それ以外に望みはない」

「速水さん…。これが夢だとしても、私の気持ちは変わらない。夢から醒めても、あなたと一緒にいたい」

その瞬間、ふわっと風が起こった。お堂がゆらゆらと動き始め、見る見る回転し始める。屋根が飛び、壁が倒れ、ふたりは板の間に乗ったまま、一瞬で一番高い杉木立の梢へと運ばれていた。

「な、ななな何!?」

マヤの涙は一瞬で乾いていた。隣の真澄を見上げると、真っ青な顔をしている。

「…高所恐怖症、とかじゃないですよね?」

マヤが恐る恐る尋ねると、真澄は強くマヤを抱き締めながら(というよりマヤにしがみつきながら)、

「やや、少し、いや、かなりかな?」

と自信のない声で言った。

「すごーい。下見てくださいよ」

最初の驚きが治まると、急に楽しくなってくる。片目を瞑るようにして手を離さない真澄を尻目に、マヤはぐるりと辺りを見回した。板の間は空飛ぶ絨毯よろしく、軽快に空を飛んでいく。下には杉の天辺がどこまでも連なり、遠く木立の間の細い道を松明が動いていくのが見える。赤々と火が焚かれているのは麓の村だろう。華やかな市が立ち、市女笠と烏帽子が戯れている。仰ぐと、夜の雲がすいすいと天空を泳いでいく。白く冴えた月がいつもよりずっと近い。

「ねぇ、速水さん。私、いま、最高に幸せです。今すぐ死んでもいいくらい」

「ああ、俺もだ。でも、死ぬのはまだ惜しいな。まだ、君と…」

「ちょっ、何ですか、いきなりっ。ほら、高所恐怖症なんでしょ。ちゃんと座ってないと」

「急に平気になった。いいからこっちを向きなさい」

「えっ。あっ…」



「ダメですよ〜」

「…何がダメなんだ?」

ぱちっと目を開くと、真澄の顔が逆さに映った。

「○□▲×◎!?」

慌てて飛び起きると、辺りはまだ薄っすらと明るかった。太陽の最後の名残が杉木立の間に見える。

「こんなところで寝たら風邪をひくだろう。公演を控えている役者のやることじゃない」

「あっ!?紅天女!」

「まだ開演まで二時間以上ある。大丈夫だ」

ほっと肩で息を吐くと、マヤはようやく辺りを見回す余裕が出てきた。桜小路を振り切って登ってきた山道の途中だった。目の前にはお堂が建っている。板の間一枚に乗って空を飛ぶなんて、夢というのは本当に荒唐無稽だ。

「やっぱり夢だったんだ」

ぽつんと呟くと、真澄が奇妙な顔をした。

「夢?どんな夢を見たんだ?」

「えっ。そんなこと、別にどっちだっていいじゃないですか」

目を逸らしながら答えると、真澄が口の端を曲げて笑った。

「君は冷たいな。『夢から醒めても、あなたと一緒にいたい』って殊勝に言ってたくせに」

「…え」

杉木立がざわざわと頭上でざわめく。

「な、何ですか!速水さんだってそんなに偉そうにしてて本当は高所恐怖症のくせに!」

真澄がぴくりと頬を動かした。

「…誰にでも苦手なものはあるだろう。いいから、行くぞ」

差し出された手に捉まりながら、マヤは隣を見上げた。

「どこに行くんですか?」

「夢の先へ」

そう答えた真澄の横顔はどこか楽しげだった。マヤも思わず楽しくなってにこにこしてしまう。山道を降りた先には何が待っているのだろう。でも、この人と一緒なら何だってかまわないとちゃんとわかっていた。








04.16.2006



<Fin>




□lapinさまより□

このたびは快く飛び込み参加させてくださって、どうもありがとうございます♪ 数年前の夏を懐かしく思い出しました(笑)
あの頃も今も変わらず、ESCAPEは私の心の故郷です。
ここに来れば杏子さんがいて、たくさんの忘れられない作品があるのは心強い。 でも、どうか無理しないでください。杏子さんが元気でいることがファンの一番の願いです。

で。
急ごしらえのブツなのでイロイロ変です。。。(汗)
「これのどこがサインなの?」と読者の皆さんと同様、私も思っております(は?) ふたりが体験した出来事が「早くくっつけ」という異界からのサインだっつーことで、 ひとつよろしくお願いします(意味不明)
何はともあれ、祭り繋がりということで、ハピエス祭りで神輿の一端を担げたことを うれしく思います。
お祭り万歳!ESCAPE最高!
杏子さん、いつもありがとう。




□杏子より□

それは締め切り直後の某日、音信不通となってしまったお題ゲッターさまに泣き崩れていた私に奇跡の愛の手が!”あと5日で書ける?”という私のウルウルの瞳に騙され、なんと一日で納菌!!(駄菓子菓子、結局10日も延長戦しちゃったよ、ごめんね。ふんとにごめんね……)
で、で、ででで!!もうアテクシ、 のっけから、もううさぎワールドに引き込まれました。 知識のない女・杏子としましては、日本史やら民俗学にまで 通じてるのかっ!!うさ!!と感嘆のヨダレを垂らしながら、 読み進めましたとも。ああ、このうさぎはなんでも知ってるのだな、と。さすが日本一頭のいい大学を出ている才女です。
脳内はすっかり、千と千尋とうさぎの神隠し状態で進みますと、
”乱交!!”
の一言で、まぁ、まぁ、不謹慎にも内臓が一気に活気付いてしまいました。
ええ、アフォです。
も、もしや、これは社務所リターーーンズ?!?!?! とな。
ええ、きっとこれは私だけではないはずです。 餓えたハイエナ患者は、白壁のくせに、妙に濃厚なウ酸素(うさぎの排出する酸素) を体内に吸い込みすぎて、イケナイ方向に掻き立てられたハズだ! (ほんとに読んでる最中、この乱交の文字以降、ソワソワしっぱなしでした)
しかしラストは、これまた綺麗なオチ方で……。
さすが……、
と乱交の一言に踊らされた自分を恥ずかしく思った杏子でした。
というわけで、まさかまさかのうさツンからのお話をあやかることにも成功し、ほんとに祭は大成功!!(注:まだあと一日残ってるべ)
うさツ〜〜ン、助けてくれて本当にありがとう!!らびゅ♪





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